上司と英語の話になったので、書いておく。

英語を満足に伝えるか、伝えられないか。

「○○さんは英語下手だ」、「文法がだめだ」など言うが、具体的に指摘してだめだと言える人をまず見かけない。

だが、だいたいその人の指摘を考察してみるとそもそも言語や文法のことではなく、コミュニケーション相手との知識・経験・経緯や、認識ギャップを推測する力が足りていない場合があり、そもそも日本語であったとしても、できていないケースが多い。

私は文学や倫理的でない業務的な情報手段としてのコミュニケーションは、プロシージャーでしかなく、ぷプログラミングに非常に近いと思っている。


例えば極端な話、長年連れ添った夫婦が、飯時に「ん。」と言えば、伴侶が醤油を渡すといった、昭和の頑固ジジイのような話がある。

これも知識・経験・経緯をインプットして、「醤油を渡す」という返り値しかでないのであれば、コミュニケーションとしては充分に成立している。

では、日本で30代の男女が始めてお見合いし、食事をする場で、刺身を出されたとしよう。
ここで、男性が「ん。」と言ったとしても、互いに共通の認識(プログラム)がなく女性は「???」(エラー)となり、コミュニケーションが破たんしてしまう。

だが、もし男性が「醤油」という一単語だけを発した場合、女性は男性が何を欲しているかは分かるだろう。(失礼だし、今後付き合くはないとは思うけど(笑))

これは食文化として醤油が調味料の機能を果たしており、刺身には醤油をつけるという事をお互いが認識しており、食事の場で「醤油」を目的としてメリットのある行動(返り値)など一つしかないからだ。

この見合いの場では共通の認識で、醤油という言葉(変数)をあたえれば、通常の日本人であれば醤油をとってほしいのだな。と、異論はあるだろうけれど大多数が認識できる(ものとする)ので、コミュニケーションとしては問題ない。

直観的には「醤油を取っていただけませんか?」程度がマナー的にも適当だろうが、人の分かる構文と文型を懇切丁寧に整えて言うのであれば。「日本の食文化には刺身と言うものがありまして、現代の日本人は主に醤油と言う調味料に、その刺身を付けて食べることを好みます。私も例にもれずその一人であり、刺身に醤油をつけて食べたいと思っている次第でございます。お手数ではございますが、あなたは私にそこにある醤油の入った縦横10cmずつ、高さ20cm程度、頭の部部が赤い色をしている瓶を私に私ていただけませんか?」というところだろうか。

人の言葉指摘したがり人間は、ここまで極端ではないけれど、このように伝えないと間違いだ。と主張したり、指摘すら間違っていることが多い。
場の空気でそれが正しいと、根拠なく話を展開する事も少なくはない。

要はコミュニケーションにおいては共通認識と、何を目的としているかを推測するための力が一番大事なポイントであって、論理的文章構成能力、文法はツールとしてその次点にあたる。
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